表現という病。

今日のライブレポはまた後で書くと思うんですが、今日のMCで気になったネタをひとつ。
西村さんがしみじみと「音楽っていいな、表現できるって素晴らしいな」とおっしゃってました。
「ピアニシモでささやいて」というマンガがありまして。少々乱暴に説明すると歌うたい版ガラスの仮面みたいなものなんですが、主人公の女の子二人、時に支えあいながら、時に憎しみ合いながら、なんで自分は歌など歌うのだろうと悩んでいきます。状況に振り回され、周囲の圧力があってなお、自分は歌を作ってしまうのか。二人でぼろぼろになって対峙したとき、彼女らは言います。「だから、歌うたいくらいにしかなれなかった」と。身を裂かれるほどの悲しみも、立ち直れそうもない絶望も、大切な人の不幸でさえもみんな、「歌にしてしまう」。そんな自分は罪深いと。
自分もたまに、おこがましくもごくたまに、「文章を書かないと死にそうになる自分」と出会います。頭の中が文章でいっぱいになって、壊れたタイプライターのように生まれた文章で脳が埋まって、吐き出さずに入られなくなる。これは、曲を作る人なら音が、絵を描く人なら映像や色が、同じように脳内を支配するんだと思いますが、出口を求めて暴走する「表現」に、たまに自分がつぶれそうになります。書けばいいんですけどね(笑)思うように書けないときもある。そんなときは、表現したいという欲求はなんて厄介なんだろうと思います。そしてこうも思います。人として何かが決定的に欠けているから、「表現」なんぞに取り憑かれるんじゃなかろうかと。
いやまあ、自分はしがないブロガーなんですけどね(笑)すべてをかなぐりすてて表現に向かっていたり、表現するためにずいぶん恥知らずになってたりする自分をふと振り返ったとき、申し訳ないなあと思ったりすることがあるのでした。