教えてCMJK!(笑)

ネオテニーとかはよく判らないのだけど。
CMJK7月の日記より。
「やればできる」は呪いの言葉だというのはよく判る、つもりだ。まあ自分は、昔から「やんなくてもデキることしかやらない」性質ではあったけど。(ぉぃ と、いうか、JKの言う「実現させるのが楽しいから努力を努力と思わないですむ」ことしかやってないのだった。やり遂げた自分を思えば楽しいことなら、誰にも認められなくても、どれほど労力をかけても気にならないところは、ある。
ただ、こう。今子育てなんぞをしていて。この「やりたいことしかやらない」私を見て子供はどう育つのだろうと思ったりするのだ。自分の母親はやっぱり、やりたいことしかやらない人だった(笑)手抜きをされた印象はないのだけど、あんまし我慢とかは教わらなかったように思う。ヤなことはそれなりに母にもあったらしく、だいぶ大きくなってからちらほら話を聞いたけれど。懐かしそうに、楽しそうに話す母からは、苦労の色は感じなかった。今起こっていることの愚痴でも、どこか楽しんでいるように見えた。「普通はそうよ」という言葉で縛られるのだけは勘弁して欲しかったけど。(だから私には「普通」やら「常識」やらという言葉に偏見じみた嫌悪感がある)なんかもうずっと、「普通はそういうものだ」という言葉と、母の生き方から学んだ「やりたいことはなんとしてもやるべき」というメッセージの狭間で迷い続けている自分がいる。
いろんな本を読んで、「やりたいことをやり遂げた人」に励まされ、ふと生活に立ち返って、「普通」でいることの難しさにヘコんで。やりたいことを思い切りやることは、普通で平凡でいることからの逃避なんじゃないかと思っちゃったり、する。厄介なことに、母からのメッセージは「普通で平凡なんてつまらない」というのもあるのだ。(これは主に真面目な父に対する愚痴だったが)そんな、二律背反のメッセージを受け取ったまま、ときおりどこにも行けなくなる自分がいるのだった。
母がことさら普通であれと望んだのは、あんまし普通じゃなかった自分が苦労したから、ってことなんだろうと思ったりもするわけだが、気持ちよく生きるためにはやっぱり普通には生きられなかった母の背中を見て育った自分は、もう「普通」とはその人のエゴであると認識するくらいにどこか間違ってしまっている。まあ、世の中の方も多様化が進んで「常識」なんて狭いコミュニティの中でしか通用しなくなってるけどね(笑)
迷い続けたまま母親なんかやってていいのかという迷いが、ずっとある。母から受け取ったメッセージは混乱していたが、母自身が発する言葉には迷いがなかった。こうするのが正しいと自分を信じられなければ、なにもできない。そこまでは判っているのだけど。やっぱりまだガキだなあ、自分。ここでJKの日記に戻れるか?(笑)ネオテニーとやらは、成体と幼体に劇的な変化がなく、その分脳の発達に時間をかけられるイキモノのことだそうだ。30をいくつも過ぎて、まだ自分は「オトナ」ではない。てゆか、成体になったホモサピエンスってどんなイキモノなんだろう。いくばくか、小さな何かを成し遂げることで得た自信のようなものはあるけれど。上記のように、すぐ揺らぐ。本気でやれば大概のことはできるという確信はありながらも、本気が続く期間がひどく短距離なんだよな。
そういや哲ちゃんも最近、本気で修行したホンモノしか通用しなくなる、みたいなこと言ってたな。だけど、こう、ヒトが本気でやり遂げられることなんて一生にひとつ見つかればいい方で、ということは、ヒトは平均化するんじゃなくて、ある能力に特化して専門化していくことになる、のだろうか。マルチになんでもそこそこできるのがいいんじゃなくて、欠けてる部分は思い切り欠けているけれど、その分専門なら任せろというヒトが増える、と。なんか江戸時代とかに戻ってる気もしますが(笑)江戸時代は江戸時代なりに、高度に専門化したヒトたちが協力しあうことによってとてもうまく機能していた時代ではあるので、うまくいくならそれはそれで幸せになれるのかなあ。
なんかだらだらと話がズレちゃいましたが(笑)幸せになりたいな。そんだけ。小さなことでも、本気で打ち込める何かに夢中になっている間は幸せなんだけどなあ。