天体観測最終回

えー。ぶっちゃけカタルシスはやってきませんでした(笑)ハタチ過ぎても青臭さを引きずってるとヒドい目に遭うぞ、というのがこのドラマの教訓だったんでしょうか。
「もう25歳」というフレーズが引っかかってきましたが、自分、25歳言うたらある意味全開だったよ? もらった給料全部CDとクラブ通いに突っ込んで、なんか一番やりたい放題だった。まあ、環境に恵まれてたことは否定しませんけども。それなりに、ミニコミ作ったりイベント開いてみたりして、やればやっただけの手ごたえみたいなのは感じてて。あの時全開でなにやらやってたことは、いまだにある種の自信として身の内に残っている。迷惑はあちこちにいっぱいかけたけどね(笑)
なんであのメンバーは思い出の天文台を燃やしたんだろう。どんな形であれ、依存はあんましよくないことだけど、タケシというパーツが欠けたことで、思い出に妙な苦味が混じってしまったことが許せなかったんだろうか。キャラクターは皆さん妙に潔癖で、ひしと寄り添いあいながら、「心配だから」という理由で誰一人相手を信用してはいない。弱くて脆くて誰かがついててあげなくちゃいけない、そんな弱い「誰か」を救いたくて、ほんとは一番自分が救われたくて、仲間内では救われなくて、だからタケシは死んでしまった。実際に手を下したのは松原だが、うがった見方をすれば、タケシは仲間に殺されたのだという解釈も出来る。大学時代、どれくらい幸福だったかはドラマに描かれていないので判らないが。借金を返すためになんでもやると決めたタケシを受け止められる人物が一人でもいれば、タケシは死ななかったはずだ、と思う。「お前はそんなヤツじゃないよな?」という言葉の拘束力を知らないで使うのは恐ろしいことだ。「それで仲間に胸を張れるか?」なんていう台詞もあったと思うが、言い切ってしまえば胸なんていつでも張れるものなのだ。「胸を張れるか?」なんて台詞で弱みを抉るような友人ならいらないと、やっぱり思ってしまう。弱ってると、陥りがちな罠ではあるけど。「胸を張れるか?」と、「お前はそんなヤツじゃないよな?」と、問う輩は、おそらく自分が胸を張れないし、「そんなヤツ」なのだ。そしてここで「そんなこと言わないよな?」と問うている自分もきっと「そんなヤツ」。(ぉぃ
苦い思い出は自分にもたくさんあるけれど。そのどれもが、流されて決めてしまったことに関わっている。状況とか、相手を慮ってとか、自分の臆病さからとか、「誰か」の興味を引くためとか。自分で選んだことなら、結果はどうあれケリはついている。傷がじくじくと痛むのは、心に逆らって決断してしまったことだけ。そんなことが積もり積もると、デフォルトで選択を「間違える」ようになる。今だって、迷いがないわけじゃないけれど。どれだけ迷っても決めるのは自分だ。
ほんとのラストはちとばたばたしてて見逃したんですが、美冬と恭一と友也は交差点で道を別ったのは見えました。「離れていてもそばにいるような……」とかなんとかナレーションが聞こえたような気がしますが、タケシというスケープゴートなしにはそんなことにも気づけなかったのかという思いがあります。ドラマとしては面白かったけど、あんな世界に住みたいかって言われたら、嫌だな(笑)
そういや最終回はずいぶんカットがあったように思えるんですが、90分スペシャルとかだったですか? DVD借りてこようかなあ。(こんだけ文句言ってまだ見る気か(笑))まあ、身につまされる話ではありましたよ、と。今日から「漂流教室」が始まっていますが、これは本放送で頑張って見たものの、後味が微妙だったんで繰り返し見るものじゃないな。笑うポイントは結構あった気がするけど。